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力が正しさになる
(2009/10/01 公開) 【ストレス回避!】
自分でいろいろと考えて出した結論が却下されてしまうことってありますよね。そもそも「そんな考え方ありえない!」と言わんばかりに、真っ向否定されることもあります。あああ、自分なりにがんばって考えたのにへこむよなー。提案して逆に自分の評価が下がるなら、もうしばらく何も提案しないでおこうかなぁ・・・なんてひねくれてみたりして。
まー、ここで身も蓋もない書き方をしますけど、「世の中、力が正義」という事実を認めてしまうと、こういう時にちょっとだけ気分的に救われるかも知れません。たとえば、国民からみてどう考えてもおかしい与党が力を持っていたとします。
その与党が決定する政策が明らかにおかしいと思ったとしても、時の与党がゴーサインを出してしまえば何でも実行できてしまうということです。どれだけ野党の主張が正しかろうが有識者が反対しようとも、数だとか力の論理で本質を超えた判断が成立するんです。
これは政権だけでなく、日常の上下関係でも普通に起こることです。親と子供、上司と部下、お金持ちと貧乏、腕っぷしの強い人と弱い人、慣れている人と慣れていない人・・・世の中にはこれ以外にも力関係のいろんな軸があります。
とは言うものの、東洋人特有の性格なのかも知れませんが、自分の意見を真っ正面から潰されると「メンツを潰された」なんて言葉どおり、自分の人格が潰されたように感じてしまうんですよね。そういえば中国の人も「メンツ」を重んじるんだそうです。韓国も儒教の影響で年長者のメンツは大事にするんだとか。
日本に議会がなかった頃、西洋の議会を日本人が見学に行ったそうです。議会で殴り合いをしそうな議論をしていた西洋人二人が、休憩時間になると仲良くランチをとる光景を見て驚いたんだそうで。でもたぶん、それが簡単にできるのは、ロジックと人格を切り離せる西洋人だからでしょう。
「言葉は発した人に宿る」とか「言霊は言葉に宿った魂だ」なんて感じやすい東洋人は、どのように考えればいいのかな・・・と、いろいろ考えてみました。で、私なりの結論としてなじみやすいのは、「そういう場だったんだ」とか「そういう力が働いたんだ」とあきらめることです。
「力のある立場にメンツを立ててやったんだ」と思いこむことは、「メンツを大事にする」というコトと矛盾しません。メンツを大事に考えるからこそ、相手を立ててやったと思いこむことで自分も救われるというワケです。そして「これは自己犠牲だ」と思うことで、わずかながらの功名心も満足することでしょう。
セコイですか。はい。セコイですね。でも、どんなセコイ方法であっても、それでストレスを軽減できる可能性があるのなら、その選択肢を捨てないのが「すべらく!」なんです。
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