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どうして生きるの?
(2009/08/31 公開) 【ストレス回避!】
どうして生きていないといけないのでしょうか。そしてどうして幸せにならなければならないのでしょうか。・・・という考えに一度とらわれてしまうと、そこから逃れられなくなってしまうようです。もちろん、こういう状況を引き起こす一因としては脳内の伝達物質の失調によって起こることもあります。・・・が、今回のテーマでは「生きることの苦痛」からの逃れ方について考えようと思います。
生きることの意味について、一生に一度くらいは深く考える時期が誰にでもあるものです。そしてその時期には人生の淵を垣間見ることになります。生きることを考えると必然的に死ぬことも考えざるを得ないからです。考えれば考えるほど答えのない迷路に迷うことになっていくんじゃないかと思います。そして、考えれば考えるほど現実感が希薄になる体験もすることでしょう。そんな状況から逃げる方法について考えてみます。
まず、生きることの意味を考えないことをオススメします。ここで「苦しくても自分で考え抜くべきだ」という人もいるかも知れませんが、考えすぎて出口が見えなくなってしまった人は、いったん「人生を考えることに意味なんてない」と思ったほうが安全だと思います。現実感の喪失が進みすぎると「すべてのことに意味がない」というところに行き着いてしまうからです。
目が覚めているはずの時間すら「夢」の延長上に見えてしまうほどに空虚な世界。そこまでハマリこむと、おそらく日常生活に少なからず影響が出てくるんじゃないでしょうか。そもそも「日常生活」すら疑ってしまうワケで、そりゃもう大変なものです。今、目の前にある「現実」というのは誰が見ている「夢」なんだろう?・・・なんて思っちゃうワケですから。
難しいかも知れませんが、人生の意味を考えることはあきらめましょう。そもそも人生の意味を考えることは無意味だと思います。人生の意味というものは「考えるもの」じゃないと思うからです。自分が好きなように生きている中で偶然みつかるものだと思うからです。
もうちょっと厳密に私なりの考え方を書いてみると、人生の意味というのは「感じるもの」のような気がします。自分がやっていて心地よいと思えることをやっているうちに、少しずつ少しずつ見えてくるものだと思います。「この感覚が好きだから生きている」くらいでいいんじゃないでしょうか。
実は宇宙の外側には何もないし、実は自分以外の人は存在しないし、実は歴史なんてものも存在しない。この世のすべては虚構でウソでできている。・・・たとえ、本当はそうだったとしても気にしないことが救いの第一歩なんじゃないかと思います。
人生って劇やドラマみたいなモノかも知れませんね。劇をしている場所は体育館や公民館の舞台なんだけど、「ここは公園です」と言ったら心は「公園」をみるんです。ドラマだってそうで、テレビに映っている豪華な部屋の裏側はベニヤ板かもしれません。どちらも虚構。でも、心が信じるから信じる風景が浮かび上がるんです。
「ウソかもしれないけど、この舞台に付き合ってやろう。」って感じで、現実に付き合ってみる感覚も悪くはないかも知れませんよ。
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